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本日の礼拝説教要旨
「トマスへの愛」 ハバクク2:1-4
ヨハネ20:24-29 鎌野 善三師
復活の日の夕方、主イエスが弟子たちにご自身を示された時、一人だけその場にいなかったのがトマスでした。彼は、同僚の弟子の言葉を信じることができないような不信仰な者でした。しかし主はそのトマスをも愛し、彼が信じることのできるように導かれたのです。
一、一緒にいなかった者への愛
10人の弟子たちは、ユダヤ人を恐れてある部屋に閉じこもっていた弱い人々でした。しかしトマスは臆することなく一人でいました。あるいは、意気消沈して、ふとんをかぶって寝ていたのかもしれません。聖書の他の個所を参照してみると、彼は、自分の生き方を貫く、純真で強い人だったと推測されます。強い人は、皆と一緒にいることを好まない傾向があります。主は、そのような彼の性質をご存じでした。それで、あえて彼が不在の時に現れなさったのでしょう。
二、不信仰な者への愛
その日かあるいは翌日、弟子たちはトマスと出会って、主の復活を知らせました。しかし彼は信じようとせず、「私の指を、傷跡に差し入れなければ信じない」とさえ言うのです。それから1週間後の日曜日、今度はトマスがいる所に、主はおいでなさいました。そしてトマスの不信仰な言葉に答えなさったのです。たといトマスがどんなに不信仰でも、主は彼を愛して、「平安があるように」と言われたことを忘れてはなりません。主イエスの愛はそのような偉大なものです。
三、見ないで信じる者への愛
トマスは思わず、「私の主、私の神」と言いました。3年間、共にすごしたイエスが、神であることを認める信仰告白です。その後主が、「見ずに信じる者は幸いです」と告げられたのは、トマスへの叱責ではありません。見ずに信じることの難しさを承知の上で、それでも信じることがどれほど幸いかを教えられたのです。今日、私たちはまさにそのような幸いな者となっています。肉眼では復活の主の姿を見ていなくても、主の臨在を信じることができているからです。
弟子の一人ペテロは、当時の信徒に、「見てはいないけれども、…栄えに満ちた喜びにおどっています」と記しました(Tペテロ1:8)。主イエスの愛を知って、私たちもそのようになりましょう。
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