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本日の礼拝説教要旨
「キリスト教の中心」 ルカ23:32-43 鎌野 善三師
キリスト教会には、必ず十字架が掲げられています。それがキリスト教の中心的な内容を象徴しているからです。しかし十字架をただ死刑の道具とみなすだけでは、正しく理解したことにはなりません。聖書の記録から、キリスト教の中心は何かを探ってみましょう。
一、キリスト
キリストとは、「救い主」という意味のギリシャ語です。歴史上の一人物であるイエスをキリストと認めるところにキリスト教の中心があります。どんな伝記作家も、イエス・キリストが聖人であり、立派な人間であったことを否定することはしません。しかし、他にも聖人や偉人は世界中に多数います。それらの人々とどう違うのでしょうか。それは、この聖人が十字架にかけられて殺されたことと、三日後に復活したと大胆に宣言することなのです。
二、十字架と復活
キリストが十字架にかけられた直接の理由は、「神から遣わされた」と自称することに立腹した当時の宗教的権力者のねたみでした。しかし聖書は、罪人の身代わりになった小羊に譬えて、キリストの死は、罪人の身代わりだったと記しています。聖いお方でなければ、罪人の身代わりになれないからです。それは、自分を殺そうとする者たちのために「彼らをお赦しください」と祈ったことにも示されています。さらに復活は、このお方が神であったことを証明するものでした。
三、永遠の命
キリストの両脇には二人の犯罪人も同じように十字架につけられていました。一人は自分の罪を認めず、キリストを嘲っていましたが、他の一人は自分の罪を認め、このお方が神的な権威をもつことを信じて、「わたしを思い出してください」と願い求めました。これが信仰なのです。キリストは、「今日、わたしとともに、パラダイスにいる」と約束されました。キリストとともにいることこそが、永遠の命なのです。たとい肉体の命がなくなったとしても。
2000年後の今日でも、キリストは生きておられます。目には見えなくても、私たちとともにおられます。それゆえ、どんなに苦難があっても、それに打ち勝つ力が与えられることを知ってください。
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