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本日の礼拝説教要旨
「みこころを知る」 エレミヤ25:15-17
ルカ22:39-51 鎌野 善三師
福音書は「長い序論をもつ、十字架と復活の物語」と言うことができます。ルカもその4分の1を最後の1週間にあてています。主イエスが十字架の道を最終的に決断されたのは、ゲッセマネの園においてでした。主が神のみこころを知られたのは何によってでしょうか。
一、真実の祈りによって
主は、ユダが裏切ることをご存じでしたが、いつものようにいつもの所で祈られました。私たちと同じ肉体をもたれていた主が、サタンの誘惑に打ち勝つ手段は、祈りだったからです。弟子たちも、また現代の私たちも同じでしょう。私たちの肉眼で見えるものは、世の楽しみや世の誉れです。美しい服、おいしい食べ物、立派な住居は、私たちを魅了します。しかし目をつぶって祈るとき、主のみこころが理解でき、誘惑は私たちから離れ去るのです。
二、真実の犠牲によって
主は、「父よ、みこころならば、この杯を取りのけてください」と祈られました。全人類に注がれる神の怒りの杯を飲み、神から見捨てられることは、肉体をもたれていた主イエスにとって耐えられないことでした。それを正直に神に祈られたのです。しかしその後に、「わたしの願いではなく、みこころのとおりに」と祈られたことを忘れてはなりません。神のみこころは、誰かが犠牲を払うことでした。羊や牛などの動物ではなく、神の子なるお方にしかできないことでした。
三、真実の愛によって
ユダは、「自分が口づけする人物がイエスだ」と打ち合わせていたのでしょう。愛の表現を裏切りの手段とするとは、ひどいことです。弟子たちは怒って、敵の一人の右の耳を切り落としました。しかし主は「やめなさい」と言い、その傷を癒されたのです。そんなことは、真実の愛に生きる人にしかできません。主は、敵をも愛することが父なる神のみこころであることをご存じでした。神が御子イエスを世に遣わされたのも、主が十字架にかかれたのも、この愛のゆえでした。
クリスチャンは、愛に生きる者です。現実にはそれができなくて悩むことが多いでしょう。しかし、主イエスの歩みを思い続けるとき、少しでもそれに近づくことができると知ってください。
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