本日の礼拝説教要旨

  「喜びにあふれて」 詩篇100:1-5 コロサイ3:16-18    鎌野 善三

 年末になると「忘年会」がもたれます。しかし私たちは、この1年間を振り返って、主の良くして下さったことを忘れず、かえって、感謝と喜びにあふれる者となりましょう。この詩篇は、私たちの喜びがどこから生まれてくるかを、はっきりと教えています。 

一、主に仕える喜び

 「仕える」とは、自分を低くしないとできません。原語では、「礼拝する」とも訳せる言葉です。私たちの礼拝は、自分の小ささ、弱さを認めた上で、主の御前に出ることから始まります。自分が王となるのではなく、主を王とし、主の言葉に従う決意をすることが礼拝です。愛する人のために何かをすることは喜びとなります。それなら、主に仕え、主を礼拝することも喜びとなるはずではないでしょうか。

 二、主を知る喜び
 主がどういうお方かを知らなければ、「主こそ神」と告白することはできません。聖書は、主が私たちを造られたこと、だからこそ私たちは主のものであること、また、私たちを羊のように養って下さることを明言しています。主なる神は、過去・現在・未来にわたって、私たちと人格的な交わりを持って下さるお方なのです。聖書を読みさえすれば、これらのことを知ることができます。そして、喜びがわき上がってくるのです。ぜひこの喜びを経験しましょう。

 三、主を賛美する喜び
 この詩篇は、神殿の門に入る民衆が神殿聖歌隊と歌いかわしたものではないかと推測されています。今の交読文を、曲をつけて歌うようなものです。民衆が神殿に入ることができたのは、年に数度しかないことでした。ですから民衆は、上手下手にかかわらず、喜びの賛美を大声で叫びました。特に最後には、主がどれほどいつくしみ深く、恵みと真実をもって守って下さるお方かを声高らかに歌うのでした。賛美歌を歌う時、喜びが満ちることはあなたもご存じでしょう。

 主を喜ぶ生活をするとき、私たちの生き方は変わってきます。陶芸家が土塊から素晴らしい花瓶を造り、画家が白いキャンバスの上に麗しい絵を描くのなら、主なる神が私たち罪人を、喜びあふれる神の子として下さることは、決して不可能なことではありません。

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