礼拝説教

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本日の礼拝説教要旨

 「いのちの光」  詩篇36:5-9 ヨハネ8:1-12    金井 由嗣

 この箇所で、主イエスは「わたしは世の光です」と自己紹介しています。この表現によって主は何を伝えようとしているのでしょうか。ここで主に出会った人々の姿を通して、考えて見ましょう。

 一、闇の中を歩いている人々

 姦淫(不倫)の現場で捕まった女性が主イエスの前に連れて来られます。旧約聖書の律法では、姦淫の罪に対しては石打の死刑が定められていました。神様が定められた結婚の祝福を守るためです(創世記1:27-28)。罪の意識と死の恐怖におののく彼女の心は、まさに闇の中でした。彼女を連れてきた「律法学者やパリサイ人」たちの生き方もまた闇の中でした。人々を導く宗教家でありながら罪の現実に心を痛めるでもなく、女性の魂に思いを向けることもなく、他人の非をあげつらって揚げ足を取ることしか考えていなかったのです。真の「闇」は私たちの外にではなく、心の奥底にあります。

 二、光の中に立たされた人々
 「罪のない者が最初に石を投げなさい」との主イエスのことばが、彼らの隠された真実に目を向けさせます。他人の罪を非難する自らが、聖なる神の前では一人の罪人にしか過ぎないことが自覚されました。神様の「光」の中に立つ時、自分自身の姿が明るみに出されます。大切なのは、その時どのような応答をするかです。

 三、光の中を歩みだした人
 女性を糾弾していた人々は、年長者からその場を去っていきました。せっかく光の中に出ながら、自分の姿を見つめることから逃げてしまったのです。後に残された女性に、主は罪を赦す神の子としての権威をもって、語りかけます。罪を赦すだけでなく、罪深いそれまでの生活から離れて、新しい人生を踏み出すように励ましたのです。

 「光」であるイエス・キリストは、私たちが神の前で自分自身の姿を見つめるように促します。聖なる神の前で、自分の正しさを主張できる人はどこにもいません。自分の罪や弱さを認めるのはつらいことですが、主の光は罪を認めさせるだけではなく、罪から自由にされた新しい生き方があることを指し示します。罪を赦す権威のある方は、信仰者の「歩み」を導く「光」として私たちの前を進んで下さいます。